ねずみ君ち

読書やゲームやその他日常のことを細々と。

2017年の手帳。

あけましておめでとうございます。

2017年の手帳はどうしようかと昨年9月頃から考えていたわけですが、他の手帳ラーの方々も、「ずっと同じ手帳を使うぞ」と決めていないかぎりは大抵そんなかんじだと思います。

今年は初心に還ってみようかなと(気まぐれに)思いましたので、ほぼ日手帳を使うことにしました。ほぼ日手帳の好きなところは「何を書いてもいいんじゃない?」という自由さがあるところです。

 

わたしが手帳を使うようになったのは古くは中学生の頃の昔から。その頃は簡単なスケジュール(学校の行事+部活動や習い事の予定くらい)と日記を書けるような、ペラペラのノート的なものを手帳として使っていました。

しかしよくよく考えると、学生の頃の手帳のほうがわりと厳密なスケジュールでもって動いていた気がしないでもないのです。いまは仕事のスケジュール管理は社内の専用の方法で行っているわけで、プライベートなことになると、家のことと、たまーに友人と会う約束事くらいで、スケジュール部分でそれ程書くことはないのでした。

そういった事情に反して社会人になると手帳やノートに数千円から一万円以上のお金をかけるようになり、一年の間に買い換えたり追加したりすることもあります。しかもこの方面はお金をかけてもあまり罪悪感がないのでけっこう危険です。共に使用する筆記具やその他文具にも凝るようになると、かなりのお金を遣います。でもそれが楽しいのです。わたしは自分のことをこれといって趣味がない人間と思っているのですが、どのくらいお金を遣ったのかの尺度で考えると、確実に手帳ノート文房具が趣味だなあと思います。

 

そんな手帳趣味のわたしなので、それに関するちょっとしたエピソードもいくつかあります。そのうちのひとつが、わたしが中学生の頃に書いてた手帳を母親がいまだにとっていることです。もちろんその中には、いま読んだらこっぱずかしいようなことが、妄想も事実もごっちゃの状態でたくさん書いてあるわけで、しかも母親がこっそりと読んでいる形跡があり、どんな気持ちでこれを読んでいるのだろうかと思ったりします。子供の頃に書いたものと、読みながら笑っていてくれるといいのですが。

いちばん恥ずかしいのは、わたしが調子に乗って書いた創作の「物語」のようなものも書かれていることです。なぜそんなのを書いていたかというと、中学生のときの国語の先生がわたしの書く作文を妙に気に入ってくれていて、学校の弁論大会などによく狩り出されていたため紙に文字を書くということに慣れており、体験談や何かの感想をもとに書く「作文」ではなく「物語」も書いてみようという試みだったと思います。先生が喜んでくれるので、他にこれといった取り柄の無いわたしは嬉しかったのでしょうね。しかしそのあたりでやめているということは「物語」では調子が出なかったのだろうと推測されます。

 

手帳は、意識が高い方向に活用することが望ましいのかもしれませんが、わたしにとっては全く逆であって、いまでも人様にはあまり見せることのできない内容なのですが、しかし例えば一年前の今日のページを見て自分に呆れたり笑ったりほっこりしたりするだけでもなかなか乙なものです。わたしにとっては日記部分の比重が多いと思います。あとは単純な覚え書きの役割です。今後もこの使い方はあまり変わらないだろうなあと思います。そういった意味では、ほぼ日手帳はとても適していると思っています。

 

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