ねずみ君ち

読書やゲームやその他日常のことを細々と。

映画の感想。

(※ネタバレ回避のかたは読まないでください※)

 

今日は仕事終わりに映画を観ました。『この世界の片隅に』を観ました。

わたしが目にしたところでは賞賛されていることが多いので、若干期待をしながら観てまいりました。とても良い映画でした。

大切なひとや物を戦争によって奪われていくけれども、人間は、どんなに悲しんでもやがては笑うようになって、そうゆうことを繰り返しながら延々と日常生活を営んでいくのだということを描いていると思いました。

自分にとっては泣くような映画ではなかったです。悲惨な状況の場面でもとことん日常的な会話がなされていたりするので(例えば空襲で家がぐちゃぐちゃになり呆然と佇むひとに対して横から「お水ください」と言ってたりとかします)、有事であっても目の前のことが最優先な、人間のしょうもなさみたいなものを感じて、その淡々としたかんじに軽くゾッとしたりもしました。傍らでは人間がバタバタと死んでいるのにも関わらず、です。登場人物達の暢気さや絵柄はとてもほのぼのとした雰囲気なのですが、それが逆に人間の図太さや鈍感さを表現しているのではないか、とか思ったら考えすぎでしょうか。でもしかし本来人間とはそうゆうものなのだ、そうやって生きていくものなのだ、ということを再認識する映画でした。

そしてだからこそですが、目の前にいる身近なひとや大事なひとや、逆に自分を大事にしてくれたりいつも気にかけてくれるひとを、もっとずっと大切にしたいと思ったのでした。そのひと達がいるおかげでへらへらと笑いながら生きていられるのだなあと、この映画を観たら非常にシンプルにそう思いました。

というわけで今日はとても良い映画を観ました。

 

2017年の手帳。

あけましておめでとうございます。

2017年の手帳はどうしようかと昨年9月頃から考えていたわけですが、他の手帳ラーの方々も、「ずっと同じ手帳を使うぞ」と決めていないかぎりは大抵そんなかんじだと思います。

今年は初心に還ってみようかなと(気まぐれに)思いましたので、ほぼ日手帳を使うことにしました。ほぼ日手帳の好きなところは「何を書いてもいいんじゃない?」という自由さがあるところです。

 

わたしが手帳を使うようになったのは古くは中学生の頃の昔から。その頃は簡単なスケジュール(学校の行事+部活動や習い事の予定くらい)と日記を書けるような、ペラペラのノート的なものを手帳として使っていました。

しかしよくよく考えると、学生の頃の手帳のほうがわりと厳密なスケジュールでもって動いていた気がしないでもないのです。いまは仕事のスケジュール管理は社内の専用の方法で行っているわけで、プライベートなことになると、家のことと、たまーに友人と会う約束事くらいで、スケジュール部分でそれ程書くことはないのでした。

そういった事情に反して社会人になると手帳やノートに数千円から一万円以上のお金をかけるようになり、一年の間に買い換えたり追加したりすることもあります。しかもこの方面はお金をかけてもあまり罪悪感がないのでけっこう危険です。共に使用する筆記具やその他文具にも凝るようになると、かなりのお金を遣います。でもそれが楽しいのです。わたしは自分のことをこれといって趣味がない人間と思っているのですが、どのくらいお金を遣ったのかの尺度で考えると、確実に手帳ノート文房具が趣味だなあと思います。

 

そんな手帳趣味のわたしなので、それに関するちょっとしたエピソードもいくつかあります。そのうちのひとつが、わたしが中学生の頃に書いてた手帳を母親がいまだにとっていることです。もちろんその中には、いま読んだらこっぱずかしいようなことが、妄想も事実もごっちゃの状態でたくさん書いてあるわけで、しかも母親がこっそりと読んでいる形跡があり、どんな気持ちでこれを読んでいるのだろうかと思ったりします。子供の頃に書いたものと、読みながら笑っていてくれるといいのですが。

いちばん恥ずかしいのは、わたしが調子に乗って書いた創作の「物語」のようなものも書かれていることです。なぜそんなのを書いていたかというと、中学生のときの国語の先生がわたしの書く作文を妙に気に入ってくれていて、学校の弁論大会などによく狩り出されていたため紙に文字を書くということに慣れており、体験談や何かの感想をもとに書く「作文」ではなく「物語」も書いてみようという試みだったと思います。先生が喜んでくれるので、他にこれといった取り柄の無いわたしは嬉しかったのでしょうね。しかしそのあたりでやめているということは「物語」では調子が出なかったのだろうと推測されます。

 

手帳は、意識が高い方向に活用することが望ましいのかもしれませんが、わたしにとっては全く逆であって、いまでも人様にはあまり見せることのできない内容なのですが、しかし例えば一年前の今日のページを見て自分に呆れたり笑ったりほっこりしたりするだけでもなかなか乙なものです。わたしにとっては日記部分の比重が多いと思います。あとは単純な覚え書きの役割です。今後もこの使い方はあまり変わらないだろうなあと思います。そういった意味では、ほぼ日手帳はとても適していると思っています。

 

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月並みではございますが今年の振り返りと来年の抱負。

昨年の年末か今年冒頭に、2016年の抱負として「今年は穏やかに過ごしたい」というようなことを言っていたか、何かに書いていたと思う。

いま振り返ると、傍から見ると取り立てて変わったことの無い穏やかさだったと思うけど、気持ち的には、トランポリンを端から落ちそうになりながらもギリギリ落ちずになんとか乗っているようなかんじだった(良い意味で)。他人には言わないような自分にしか分からない部分でじつは穏やかではなかった(良い意味で)。わたしは、わたしにしか分からない部分でああでもないこうでもないと考えたり、またそういったことを手帳に書き込んだりするのが好きなので、穏やかではなかったといってもけっこう楽しんだ一年だったと思う。

(良い意味で)としつこく書いているのは、とことん底に落ちるような落ち込み方はしなかったためで、概ね明るく過ごした一年だった。

それを踏まえての2017年の抱負だけど、「すこし冒険しても良いかもしれないぞ」というゆうようなことをぼんやりと思い描いている。なにも冒険しない可能性もあるけど、なんとなく頭の中に浮かばせておきたいと思う。

 

そうそう「自分にしか分からない部分で」の話だけど、これまでは自分だったらこうするとか、自分だったらあんなことしないとかの、何かの物事に対しての考え方や姿勢に関して、いくらか変化した一年だった。

そのうちのひとつとして、ペットの飼い方に関しての自分の考え方が大幅に変わった。最近の傾向として「ペットショップで動物を飼うのではなく譲渡会などで里親を探している動物を飼うべき」みたいな風潮があると思うのだけど、わたしもこれまではそう思っていたし、動物愛護活動をしているかたを尊敬しているし、 ほんの少額だけど寄付による応援もする。なので今後もその考え方に反対するわけではないけれど、ペットショップにいる動物も譲渡会にいる動物も、それぞれが1匹の犬や猫なのだよなあと思うようになった。ペットショップで購入するか、譲渡会に出向いて探すかの違いはあっても、大事なのは人間側が最後のときまでちゃんと面倒をみるかどうかなのでは、と思うようになった。譲渡会にいたからこそ他よりも愛すべき犬猫だというわけではないと思うようになった。そう思うようになると、以前の自分の考え方はとても狭い考え方だったと思う。

他にも色々と自分の考え方を改めるようなことがあったし、2016年は良い一年だったと思う。

 

TL

気づいたら1ヶ月以上更新してなかった...。

久しぶりなので何を書けばいいのか...と思ったけど、べつに普通の日記でいいんだったと思い出したので適当に何か書こう。

 

わたしは4年くらい前にうつ病気味だったことがある。気味というのは、病院で診断を受けたわけではないからである。なんというか通院する勇気も行動力もなかった。不眠症で、生理も毎回つらくて、常に頭痛や吐き気があって、職場ではなんとか仕事をこなすのだけどしょっちゅう欠勤していたし、自宅ではぜんぜん体が動かずボーっとしていて家の中がごちゃごちゃだった。ゲームも読書も映画を観たりすることもできなかった。なにを見ても聞いてもまったく頭に入らないしストーリーが追えない。恋人はいたけど遠距離恋愛で、彼はとても優しいひとなのに、わたしはなぜか自分がただただ消耗しているだけのような気がして別れるしか選択肢が無いような気がしていた。結果的にお別れした。当時の唯一の癒しは飼い猫だった。

なぜそんなふうになっていたかを思い返すと、勤めていた会社で担当していた仕事がとてもストレスで、それはどんな仕事かざっくりいうとサービス業だったのだけど、自分には向いていないことをひたすら自覚するために仕事をしているようなものだった。結果的には心底人間が嫌いになって退職した。職場のひと達は良いかたたちだったけど、お客様として相手をしている人間達が嫌いだった。

わたしは元々は適当な性格なので死ぬことまでは考えなかったけれど、それに近いことを毎日のようにツイッターでつぶやいていたと思う。

 

そんなとき、あるかたからツイッターにDMが届いた。

仮にAさんとしましょう。

Aさんはご自身で作られた物をネットショップで販売しているかたである。カテゴリでいうと文房具なのかな?とてもオシャレかつ可愛いデザインの商品を作って販売しておられる。ほんとうはここで紹介したいくらいなのだけど、けっこうその界隈では有名なお店だし、ご迷惑になると良くないので控えます。

AさんはDMで「私自身もそうゆう時期がありました。今は辛いと思うけど、それをいくらでもここで吐き出して、そしてずっとTLにいてください」ということを綴ってくださっていた。何回も読んで、自分の手帳にも書き写して、毎日読んだ。

ただの1ファンでしかないわたしに、これほど心のこもったメッセージをくれるひとがいることに驚いたし、心底ありがたかった。

 

そのことがあってなのか、はたまた時間の経過による癒しなのか分からないけど、わたしは退職を決意し、転職し、うつ気味なのも無くなって不眠症は消えた。ゲームや読書や映画を楽しむこともできるようになった。

Aさんが送ってくださったメッセージをわたしはずっと忘れないと思う。

 

 

さて、いまわたしのツイッターのTLに、生きるのがつらいと毎日のようにつぶやいているかたがいる。わたしのうつ気味なんかに比べて、そのかたはとても深刻な悩みを抱えているように思える。それを見てわたしは、Aさんと同じように「ずっとこのTLでつぶやいててほしいなあ」と思っている。わたしにはなにもできないけれど、そうゆうふうに思っている。

 

雑感

「雑感」というタイトルにしたらかっこいいんじゃない?と思いました。

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まったくもって個人的な日記なのだが、気持ちが熱いうちに書いてしまおう。

昨晩、職場の異動するかたの送別会があり、日頃から天敵と思っていた苦手な女性と色々な話をして、その人に対する認識が変わったことなど。

 

その女性をK子さんとしましょう。

K子さんは私から見ると、とても甘ったれていて、自分と他人との境目があいまいで依存心が強く、気持ちや欲求を隠すということを知らず、本能のままに生きているという印象だ。

彼女と接していると常に(そんなのいちいち騒がずに黙ってやれよ)とか(ほっといてくれよ)という気持ちになる。妙に他人の行動や言動を茶化したり突っ込んだりして笑おうとするし、話題の中心にいないと不機嫌になるし、私が見ている限りではとてもめんどくさい人物なのだ。

でも「私は大人だから、できるだけにこやかに対応してあげている」。昨日認識を改めるまではそう思っていた。

 

K子さんと色々な話をしたといっても別に日頃腹に据えかねている鬱憤をぶつけ合ったとかそうゆうことではなく、あくまでも飲み会の席での雑談で、彼女はキャラクターを一切変えるわけでもなく、私も壁を作ったままの態度を変えることもなく、ひたすら他愛もない会話をしていた。K子さんに対して普段はしないような色々な質問をして、K子さんがそれに答えるというような会話が主だった。彼女はとてもご機嫌で、たくさん面白い回答をしていて聞いてて楽しかった。そしてひたすらゲラゲラと笑っている私に対して「もっと話そう」「また一緒に飲もう」と何度も言っていた。

その中でひとつ分かったことがある。それは、K子さんは私のことを嫌ってはいないということだ。むしろK子さんは、私と少しでも親交を深めたいと思っているかもしれない。それが妙な絡み方をする理由なのかもしれない。そうゆう認識に変わってきた。

例えば、恋人がいて相手があまり自分に関心を向けてくれないときに、なんとか気を引こうとして面倒くさい女になることってあると思う。K子さんは周囲の誰に対してもそうゆうアクションをとるタイプなのかもしれない。

そして私自身は、他人に興味が無いような態度をとりすぎていると思った。興味があるのに無いような態度をとるし、それは臆病さから来ているのだけれどもそれこそ子供っぽくて、K子さんのように、方法は何であれ積極的に相手に絡もうとするほうがよっぽど大人らしいかもしれないと思った。

 

しかし各々、心地よい他人との距離の取り方というのは確実に存在すると思うので、K子さんとこの機会に距離を縮めましょうとは思わないのだが、今後彼女と接するときの気持ちの持ち方は変わっていくと思う。それは私にとってはけっこう大きな収穫だった。

 

読書日記 『銃』 中村文則著

いつも読書の感想を書くときは数日経ってから書くことが多いのですが、なぜかというと頭の中で感想がまとまってきたら書くというかんじだからです。しかしこの『銃』はいま読み終えてすぐ感想を書きます。なぜかというと読み終わって頭痛がしてる状態で書いたほうがこの本の感想としては良さそうだからと思ったためです。(ネタバレあるかも注意)

 

銃 (河出文庫)

銃 (河出文庫)

 

 個人的に、『銃』、『遮光』、『掏摸』の主人公はけっこう似ていると思います。境遇とか、性質とか、行動パターンとか。でも『掏摸』の主人公はだいぶ大人で冷静なかんじかな。自分のやっていることはわかってるという感じがしますね。

それに対して『銃』の主人公は、偶然拾ってしまった銃にとりつかれたようになって完全に翻弄されている印象です。しかし銃は単に物ですから、主人公が勝手にそれに意味を見出しすぎてて、まるで銃に操られているかのようにおかしくなっていきます。具体的には人間を銃で撃つという行動に向かっていくことになります。この結末のようになるのは必然であって、きっかけさえあればいつでもこうなっていたのか、銃を手に入れなければこんなことにならなかったのか、とか色々と考える終わり方でした。

だいたいこの主人公は、他人との関わりや周囲の物事を基本的に面倒と思っているし、打ち込んでいることも特に無い大学生で、そんな毎日の中で突然に夢中になれる対象である『銃』を手に入れるのですが、なぜそれほどまでに『銃』に魅せられてしまうのか、とも思ったり。物語が進むにつれて、けっこうギリギリの精神状態で生きていたのかなあと思わせる描写も出てくるのですが、何よりも主人公の性格の傾向みたいなものが大きく作用している気がしました。

それともうひとつ持った感想としては、最初は夢中になれたものも、時間の経過とともにあれこれとこねくり回したり、考えすぎたりすることによってなんだか台無しにしてしまうことってあると思います。それが銃だからこそ危険だし引き起こす結果としては取り返しがつかないのだけれども、見方を変えれば、単純に他人との関係性とか、あるいは仕事との関わり方とかにも通じるものってあるのではないかなあと思いました。しかしバランスをとることを考えてばかりでは何も始まらないし進まないもので、悩ましいところです。

それと、夢中で何かに打ち込んでやっていることと、何かに夢中になるあまりに頭がおかしくなることってすごく似てると思うのですが、そうなると普段、自分は狂ってなんかいないと思っていてもけっこうきわどいギリギリの場所にいたりするのかなあとか、思いました。わたしは、この『銃』や『遮光』の主人公に感じる性質と同じものを自分に感じることがあるので、自分を見失わないようにしたい、けど自分を忘れるくらいの対象も存在して欲しいとか、色々と勝手なことを考えた本でした。

それではまた。

 

ゲームの感想 サンドボックス色々

自分が遊んでいるゲームの中では、サンドボックスと呼ばれるゲームをけっこうたくさんやっています。サンドボックスといえばMinecraftあたりから始まってこれまで様々なものを遊んできたのですが、最近遊んで面白かったものの感想を書きます。例によって攻略情報ではなくただの感想ですし、公式へのリンクを貼ったりもしません。すみません。

 

 

Starbound

これは本当は詳しくしつこく感想を書きたいくらい好きなゲームなのですが、今回は簡単にしときます。

Terrariaと比べられることが多いみたいですが、個人的にはStarboundのほうが好みです。Terrariaに比べてほのぼのしてる気がします。NPCにも愛嬌があって、戯れてるのを見てるだけでも癒されます。BGMが素敵です。

メインのクエストを少し進めると他の星に行けるようになるので、様々な種族の町やお城を探索したり、地下にある変なダンジョンを攻略したり、家具や装飾品を集めたり、単純にそこらをブラブラしてるだけでも楽しい、私にとってそうゆうゲームです。

あと余談ですが、terrariaはスマホ版のほうが操作が楽だと思います。

 

Banished

これは中世が舞台なのかな?建物を増やし、住民を増やし、農作物や加工品を作り、発展させてくみたいなやつだったと思います。ボーっと遊べますのであまり脳を働かせたくない時には最適だと思います。キャラクター等はあまり可愛くはないです。大人な雰囲気。

 

Craft The World

ブロックの大きいテラリアという印象。ドワーフを働かせて頑丈な建物を作り、毎夜のように襲ってくる化け物達を受け流したり、罠をしかけて撃退したりします。絵が綺麗でドワーフ達がおっさんなのに可愛いです。

 

Don't Starve

Steamのストアページを見たらサンドボックスのタグがついてたので。わたしはこうゆうかんじのゲームはこのDon't Starveが初めてだったのですが、初見で「おもしれー!」と思ってけっこうハマりました。普通のサンドボックス型ゲームに比べてハラハラしますし不気味要素が強いです。まったりしたいときには適していないと思いますが、遊んでみたらきっと面白いと思います。

 

Factorio

今回あげるゲームの中で、このFactorioの中毒性がいちばんヤバイと思われます。効率を考えると色々と頭を使わなきゃなのですが、ただラインをつなげていくだけならボーっと遊べます。そしてつながったライン上を流れる鉱物をボーっと眺めたり、自分がラインに乗って流されてみたり、たまに襲ってくる原住生物を倒したりしているとやがて窓の外が明るくなります。わたしはそれを一晩やってこれは死ぬと思い、翌日からは一日2時間だけ遊ぶことにしました。

 

他にもあるのですが、今回はこのへんで。